馬鹿馬鹿しいけれど、笑えない。

僕はそもそも、なりたくてこんなことを考えているわけじゃない。

 

正常な頭ってものを捉えようとすることが既に正常じゃないだろうな、

 

なんて笑って済ましてる時の僕の目に瞬きがない。

 

そのことを誰かに指摘される度に、萎縮した自己認識が

 

猛烈な重圧と共に一瞬だけ頭上、ほんの数センチを通り過ぎていく。

 

空気を纏ったその時間は、僕だけに質量を与えて遠く遠くへ過ぎ去っていく。

 

僕がそれを確かにあったものとして認識するには、こんな場所から抜け出す必要があるのに。

 

どうも彼はそれを許してくれそうにない、 使う言葉には色々な形があるけれど。

 

それってばもう僕が元に戻そうとしても意味がない、どこかで自分ってのは、

 

想う時には遥か先に、そして言葉にすれば密接に重なり合うようだとわかった。

 

その時間的差異を空間として捉えるためにここにいるんだけど。

 

本当にこんなことを僕は考えてないんだ、全部嘘っぱちなんだよ、ただどこかに行きたい。

 

抜け出したいが為の歩み、一つ一つが僕にとっては首を吹き飛ばすようで。

 

ここに来るだけで、僕が手に入るとはとてもじゃないけれど、思わなかった。

 

僕のどこも、正しく元の形に戻ろうとしてはくれないみたいだ。

 

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僕は僕じゃないって言ってる奴を信じるな。

書きたいものがない、と書く時。

 僕はいつも何を言っているんだ自分はと思い詰める。

 そもそも、書きたいものがないことを書かざる終えない。

 僕は専門的に絵画を学んでいる身であるが、”モチーフがなくなった”。

 と言う現象をモチーフにはできない。これは文章にのみ可能な現象だ。

 今回に限ったことではなくて、僕はいつも書くことがない。

 言うなれば書きたいことは常に書きたいことがないことについて。

 こればっかりはどうしようもない、根本的に書きたいものがあって

 指が動く人ってのはとても凄いと思う。

 僕の場合は書きたいものをまとめる行為が既に書くことを行っているから、

 書くことが尽きることはなくても、趣旨が変わることはない。

 今だって結局は僕を中心とした話でしかない。

 なんとか克服しようとするけれど、結局人ってのは書きたいと思った

 インスピレーションを元に感じた体感を描くことしかできない。

 状態を伝えられるのは状態と言う現象そのものだけだ、

 自己解釈の混じらない情報を僕らは誰にも提供できない(自身にすら)。

 メディアの恐怖ってのはそもそもここを根本的に否定する報道の形が

 存在するとでも誰もが思っていることだ。

 現地に行ったところで、個人が自己に対してのメディアの形を成すのだから

 情報を知るというよりも情報を作ると言ったほうが正しい。

 とでも思ってる僕にはやっぱり無理が生じてくる。

 みんながどうやって書きたいと思うものを見つけ出すのか非常に気になるところだ。

僕には多分、ものを見つめる自分を見つめる傾向がある。 

それを払拭することこそが、まさに解離性障害の克服と言える。

同時に存在する別人格を僕と僕がお互いを捉え合うときをいかに減らせるか、 

しかしその思考の流れを把握する必要がある(抑制を)とき、

同じことが繰り返されてしまうのではないかと思う。 

僕は厳密にはまだ解離性障害者として明確な診断が下るほどの重症者ではない。

正直、まだ僕だって本当にそうなのか半信半疑だ。

 統合失調症なのかもしれないし言ってしまえば、

 人々にはびこる妄想やただの想像なのかもしれない。

 でもそれは何にだって言えることで、例えば夢ってものを

 お互いに共有することができたことって世界で一度もないし。

 そこには人々の間で夢であろう現象の

共通認識によって定義されている条件に

 当てはまるものを体感したとしか言いようがない。

 だから言わば言ったもん勝ちだ、

 そこにどんな詳細性を認めるかは

 多少の精度を必要とするけれど

 それすらも言ってしまえばいいんだから。

 だけど断定する要因を用意する行為自体が、

 病状であるならばそれは確かに診断を確定づけることができる。

 僕は頭がおかしくなっていくのを望んでいる、そのことを知っている誰かと僕。

 これを書いているのは僕だけど、言っているのは彼。

 重要なのは僕はまだ彼が僕であることはわかっていること、

 でもこれを言っているのは彼なんだ。

 別におかしな話をしようとしているわけじゃないけれど、現にそうなんだ。

 つまりこれを言っているのは彼で、でも書いているのは僕だ、

 って言っているのも彼ってわけだ。それを俯瞰するもう一人も存在する。

 つまり僕ってどこにいるんだろうね?彼は僕なのに、

 彼は何の話をしているんだろうね?でもここには全て自己認識が存在している。

 パラドックス的な自己崩壊の流れを観察する自身があれば、

 終わりはやってはこない。誰に向けて僕が話してるのかも、もうわからない。

そろそろ終わりにしよう。

 

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対話に対して会話をするのか?

人々から切り離された世の中の認識という抽象的な次元で浮遊している事実ってものを、
 
何故か口にした人がそもそもを創造したかのように感じる人々がいる。
 
僕らが話せる言葉の先に意味なんてものは実は含まれてなくて、
 
ただ現実に起きた事象、五感で得られた感情も含め。
 
それらを言語形式に伴った輪郭に切り取る作業。
 
意味ってものは言葉の内側にあるんじゃなくて、外側の世界にしかない。
 
発言と人間性が同じものじゃないってことが分かると、
 
人を前にした時にただ世界だけがやってくるようになる。
 
だけど危険なのはここに人と世界の隔たりを作ってしまうこと。
 
ここで僕が語ることは確かに世界だけで起こっていることなんだよ、
 
けれど僕もその形を成しているということ、君もその形を成しているということ。
 
僕はツールでしかないけれど、そこを通る世界でもある。
 
でも僕が話したいのは局所的な点で言える”自分”のことじゃない、
 
どこで自分の話になるのかはまた話が変わってしまうけれど...
 
言いたいのはここで書かれてることはすべて世界で起こっていることであって、
 
主体的に見出された個人の話ではないってことだ。
 
ただ文字と文章のその先にある、”世界”を認識してもらえたら「嬉しいと思う。」 
 
僕がここでやりたかったのはつまりは輪郭を切り取る作業なんだ。
 
長い間、怠ってきたその作業を円滑にこれからも進めるために、
 
人々に世界を伝える優秀なツールになることを求めて。
 
”お話”は沢山ある、それは人に依存しないから。
 
溢れるそれを手に取れる形にできるのかやってみる価値はある。
 
素直になろうとすることが既に素直じゃないように、
 
捻じ曲がったその思考の先の疲れ果てたため息しか、
 
真実なんてありはしないと思いたい。
 
確かに失うものは多かった、けれどどうしても抜け出せない。
 
無駄な遠回りをする思考形態に依存することで、
 
僕は人格を役割として利用する。
 
それを丁寧に最初へ戻すのか、言葉がなくなるのを待つのか。
 
これから先はまだ議論の余地がある。