対話に対して会話をするのか?

人々から切り離された世の中の認識という抽象的な次元で浮遊している事実ってものを、
 
何故か口にした人がそもそもを創造したかのように感じる人々がいる。
 
僕らが話せる言葉の先に意味なんてものは実は含まれてなくて、
 
ただ現実に起きた事象、五感で得られた感情も含め。
 
それらを言語形式に伴った輪郭に切り取る作業。
 
意味ってものは言葉の内側にあるんじゃなくて、外側の世界にしかない。
 
発言と人間性が同じものじゃないってことが分かると、
 
人を前にした時にただ世界だけがやってくるようになる。
 
だけど危険なのはここに人と世界の隔たりを作ってしまうこと。
 
ここで僕が語ることは確かに世界だけで起こっていることなんだよ、
 
けれど僕もその形を成しているということ、君もその形を成しているということ。
 
僕はツールでしかないけれど、そこを通る世界でもある。
 
でも僕が話したいのは局所的な点で言える”自分”のことじゃない、
 
どこで自分の話になるのかはまた話が変わってしまうけれど...
 
言いたいのはここで書かれてることはすべて世界で起こっていることであって、
 
主体的に見出された個人の話ではないってことだ。
 
ただ文字と文章のその先にある、”世界”を認識してもらえたら「嬉しいと思う。」 
 
僕がここでやりたかったのはつまりは輪郭を切り取る作業なんだ。
 
長い間、怠ってきたその作業を円滑にこれからも進めるために、
 
人々に世界を伝える優秀なツールになることを求めて。
 
”お話”は沢山ある、それは人に依存しないから。
 
溢れるそれを手に取れる形にできるのかやってみる価値はある。
 
素直になろうとすることが既に素直じゃないように、
 
捻じ曲がったその思考の先の疲れ果てたため息しか、
 
真実なんてありはしないと思いたい。
 
確かに失うものは多かった、けれどどうしても抜け出せない。
 
無駄な遠回りをする思考形態に依存することで、
 
僕は人格を役割として利用する。
 
それを丁寧に最初へ戻すのか、言葉がなくなるのを待つのか。
 
これから先はまだ議論の余地がある。