何を語りたいのか、僕には語る必要がある。

HSP,発達障害(ADHD,AS),鬱病,解離性人格障害,統合失調症を発症している人間の思考の文章化

僕は僕じゃないって言ってる奴を信じるな。

書きたいものがない、と書く時。

 僕はいつも何を言っているんだ自分はと思い詰める。

 そもそも、書きたいものがないことを書かざる終えない。

 僕は専門的に絵画を学んでいる身であるが、”モチーフがなくなった”。

 と言う現象をモチーフにはできない。これは文章にのみ可能な現象だ。

 今回に限ったことではなくて、僕はいつも書くことがない。

 言うなれば書きたいことは常に書きたいことがないことについて。

 こればっかりはどうしようもない、根本的に書きたいものがあって

 指が動く人ってのはとても凄いと思う。

 僕の場合は書きたいものをまとめる行為が既に書くことを行っているから、

 書くことが尽きることはなくても、趣旨が変わることはない。

 今だって結局は僕を中心とした話でしかない。

 なんとか克服しようとするけれど、結局人ってのは書きたいと思った

 インスピレーションを元に感じた体感を描くことしかできない。

 状態を伝えられるのは状態と言う現象そのものだけだ、

 自己解釈の混じらない情報を僕らは誰にも提供できない(自身にすら)。

 メディアの恐怖ってのはそもそもここを根本的に否定する報道の形が

 存在するとでも誰もが思っていることだ。

 現地に行ったところで、個人が自己に対してのメディアの形を成すのだから

 情報を知るというよりも情報を作ると言ったほうが正しい。

 とでも思ってる僕にはやっぱり無理が生じてくる。

 みんながどうやって書きたいと思うものを見つけ出すのか非常に気になるところだ。

僕には多分、ものを見つめる自分を見つめる傾向がある。 

それを払拭することこそが、まさに解離性障害の克服と言える。

同時に存在する別人格を僕と僕がお互いを捉え合うときをいかに減らせるか、 

しかしその思考の流れを把握する必要がある(抑制を)とき、

同じことが繰り返されてしまうのではないかと思う。 

僕は厳密にはまだ解離性障害者として明確な診断が下るほどの重症者ではない。

正直、まだ僕だって本当にそうなのか半信半疑だ。

 統合失調症なのかもしれないし言ってしまえば、

 人々にはびこる妄想やただの想像なのかもしれない。

 でもそれは何にだって言えることで、例えば夢ってものを

 お互いに共有することができたことって世界で一度もないし。

 そこには人々の間で夢であろう現象の

共通認識によって定義されている条件に

 当てはまるものを体感したとしか言いようがない。

 だから言わば言ったもん勝ちだ、

 そこにどんな詳細性を認めるかは

 多少の精度を必要とするけれど

 それすらも言ってしまえばいいんだから。

 だけど断定する要因を用意する行為自体が、

 病状であるならばそれは確かに診断を確定づけることができる。

 僕は頭がおかしくなっていくのを望んでいる、そのことを知っている誰かと僕。

 これを書いているのは僕だけど、言っているのは彼。

 重要なのは僕はまだ彼が僕であることはわかっていること、

 でもこれを言っているのは彼なんだ。

 別におかしな話をしようとしているわけじゃないけれど、現にそうなんだ。

 つまりこれを言っているのは彼で、でも書いているのは僕だ、

 って言っているのも彼ってわけだ。それを俯瞰するもう一人も存在する。

 つまり僕ってどこにいるんだろうね?彼は僕なのに、

 彼は何の話をしているんだろうね?でもここには全て自己認識が存在している。

 パラドックス的な自己崩壊の流れを観察する自身があれば、

 終わりはやってはこない。誰に向けて僕が話してるのかも、もうわからない。

そろそろ終わりにしよう。

 

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